ヴェーヌスとエリーザベトの緊迫状態

16.09.2017

リヒャルト・ワーグナーのオペラ「タンホイザー」ではしばしば、ヴェーヌスとエリーザベトの二人の女性登場人物は相対するよう現されます。愛の女神ヴェーヌスは肉体的、官能的な欲望を象徴し、一方でエリーザベトは貴婦人に対する中世の騎士の奉仕的な愛情と中世ヴァルトブルグ城における歌合戦社会の精神愛を体現しています。

 

ミュンヘンの新演出で演出家のロメオ・カステルッチは、ヴェーヌスとエリーザベトの二人の登場人物をライバルとしてではなく、劇中に表現される二つの相反する原理として表しています。彼女らは「二人の別人ではありません。タンホイザーを揺れ動かす緊迫状態を共に作り出しているのです。」と演出家は述べています。タンホイザーは磁石のように、ヴェーヌスとエリーザベトという二つの電極に引き付けられたり弾かれたりして揺れ動きます。女声デュエットを組み込むなどして二人を直接関わらせることは、ワーグナーには容易であったでしょう。しかし、この作曲家はヴェーヌスとエリーザベトを一度も舞台で共に歌わせはしませんでした。彼女らは常にタンホイザーに直接向き合い、決して互いには近づきませんでした。それでもこの二人の女性登場人物は、実は様々な旋律で繋がっています。

タンホイザーがヴェーヌスから離れ始める場面を観てみましょう。「もうたくさんだ! もうたくさんだ!」という彼の最初の歌詞で、カステルッチ流のヴェーヌスが登場します。タンホイザーはヴェーヌスベルグでの愛や誘惑や快楽など全てにおいて過剰であることに息詰まります。ヴェーヌスは、人によってはかなり嫌悪を感じるであろう、形を成さずぬるぬるして動くことの出来ない肉体の山として現されています。それに対しエリーザベトは、聖人の特徴を現すよう波打つ長い髪で、ベールと白い衣装を着けています。しかし衣装の下には裸体が透けて見えます。衣装の透明度はオペラの進行に従い失われていきます。エリーザベトの外観の変化は音楽にも聞き取れます。

エレナ・パンクラトヴァ (ヴェーヌス)  © Wilfried Hösl
エレナ・パンクラトヴァ (ヴェーヌス) © Wilfried Hösl
アニヤ・ハルテロス (エリーザベト) © Wilfried Hösl
アニヤ・ハルテロス (エリーザベト) © Wilfried Hösl

音楽はこの二人の女性をどう表現しているのでしょう? オペラの始め (1,2) のヴェーヌスによる誘惑の試みと、終局近く(3,1).[1] のエリーザベトの祈りの2ヶ所の歌の部分を比較してみましょう。

選択した両場面は、このオペラの根本的な葛藤の状況を緊迫させています。ヴェーヌスに対しタンホイザーは優柔不断を余儀なくされ、エリーザベトの犠牲死は彼の救済条件を整えます。ミュンヘンの新演出にも使われるタンホイザーのウィーン版スコアでは、この状況が明確です。

ヴェーヌスの魅惑の手管

タンホイザーはヴェーヌスベルグから逃げ出したくなります。愛の女神はあらゆる手管を用いてこの歌い手を引きとめようとしますが、タンホイザーの意思は固く「あなたの国から逃げなければ。おお女王様、女神様、どうぞここから出させてください!」と3回主張します。ヴェーヌスは彼を洞穴に閉じ込めたり、お世辞を言ったり、悪口を言ったりします。彼女はその絶望的な状態に、タンホイザーを引き止めるため全ての魅惑の手管を尽くします。

ワーグナーは、このヴェーヌスの最後の楽曲の音楽的性格をそれ以前と変えています。音楽はもはやリズミカルでも沸き起こるようでもなく、愛しく甘く揺らめくように響きます。あたかも時が止まっているかのようです。そぎ落とされたオーケストラが控えめに弱く(pianoヴェーヌスの歌に沿います。その響きを奏でるのはヴァイオリンと高音の木管楽器です。

例 1)
例 1)


二つのヴァイオリングループが
8つのパートに展開されます。響きを押さえ静かに奏でるためのミュートを用いた演奏です。この部分の調和と音響の基調は舞うようなトレモロやトリルです。しばらくするとヴィオラが参加し、チェロとコントラバスは最後に少しだけ参加します。管楽器はクラリネットとファゴットとホルンが若干と、高音域のフルートとオーボエが演奏します。管楽器の3連符が弦楽器のリズムのはっきりしない響きと重なり、拍子が薄らいでいきます。 (1)


このような演奏によりこの部分は明るい音調となります。低音はほとんど聞かれません。そこかしこでソロ・ヴァイオリンが表現豊かに柔らかく
espressivo dolceかなり高音の歌曲のメロディーを奏でます。ヴェーヌスとソロ・ヴァイオリンはデュエットを奏で、オーケストラは控えめで軽やかな音景を担うよう、ワーグナーはここに明らかな序列をつけました。

ヴェーヌスの歌には多くの半音が用いられています。この導音は拍子を繋ぎ、聴衆が引き込まれる継続した緊張感を導きます。声の音程の並びと繋がりを詳しく見ると、驚くべきことにこの部分の伴奏は大半が愛の女神の歌よりも高音(Satzgefügeであることが分かります。一般的にはこの逆で、女声の高音部はオーケストラより高音です。最終部分に於いてのみこの構成が破られ、2に見られるように、ヴェーヌスはそれまでの最高音で「愛の女神」の歌詞を晒し出すかのごとく歌うのです。

エリーザベトの別れ

Beispiel 2)
Beispiel 2)

エリーザベトの犠牲死直前の祈りはこれと全く異なります。すなわち、上記の小節のメロディーには通例どおりに対応する音域(例2)が見られます。エリーザベトは喜ばしくト長調の広間のアリアで登場し、別れは半音低い変ト長調で歌います。


オーケストラは極端に制限され、弦楽器は全く使われません。木管楽器と
2本のホルンがエリーザベトの伴奏をします。オペラ全般でこの部分だけにバスクラリネットが登場します。この楽器はワーグナー全作品の重要場面で活躍します。彼の作品中でバスクラリネットの演奏は短いのですが、物語の転換に重要な場面(例えば、マルケ王がトリスタンとイゾルデの恋愛に気付いた後)や、登場人物が死を目前にした場面などで用いられます。タンホイザーでは、以前により高音のB管クラリネットで演奏されたメロディーがバスクラリネットに引継がれ、方伯の娘の天国への旅立ちに付き添うのです。

先のヴェーヌスの場合と同様、それぞれの木管楽器が変化をつけて演奏します。フルートとオーボエが高音部を担い、エリーザベトの伴奏にはクラリネットとバスクラリネットとファゴットが中間音と低音を担います。それらは倍音の違いにより、フルートやオーボエよりも本質的により神秘的で暖かに響きます。ワーグナーは、静かに守られた状態を導き出すため、また、エリーザベトの最後の場面の効果として用いています。ヴェーヌスの誘惑の試みの最後が広音域に弾けたのに比し、エリーザベトの祈りの最後は沈黙に達します。続く38拍は楽器の演奏のみです。ワーグナーはエリーザベトの昇天部を語りの如く作曲し、彼女には舞台上で歌無しの芝居をさせます。この場面のワーグナーの演出指示書には「エリーザベトは彼(ヴォルフラム)に、彼と彼の忠誠なる愛に心から感謝していることを再び身振りで表明する。彼女の道は崇高な任務を果たすべく天国へと続く。彼は彼女を一人で行かせ、後を追ってはならない。彼女はゆっくりと遥か彼方に見えるヴァルトブルクに向かう山道を登る。」とあります。

エリーザベトとヴェーヌスの音の世界は対応させたパッセージにより、極端に対照的な肉欲と禁欲とが互いに根本的に区別されています。半音階の連なりと導音は安定して音階分域で向き合っています。つまり、低音が無く高音一辺倒のテクスチュアは神秘的で暖かな音色と対比し、同様にそれぞれソロ演奏されるヴァイオリンとバスクラリネットも対比しています。カステルッチ演出での二人の緊張状態は音楽にも同様に表されています。

 

忘れてならないのは、それぞれの場面がオペラの始まりと終わりという両極端に配置されていることです。開幕と終演部にあるために、登場人物の成長を見落とす可能性が常に存在します。特にエリーザベトに於いては、彼女の成長が主要な意味合いを持ちます。それについてカステルッチは「(タンホイザーの)性的欲望はエリーザベトに対してのみです。彼女こそは情欲の真の対象です。なぜかと言うと2者の対立を鏡に映る単純な対称と見るからではなく、脚本に従うからです。」と強調しています。エリーザベトの中には、始めに思われるよりも多くのヴェーヌスが隠されています。カステルッチは、タンホイザーの女性登場人物を理解する手掛かりになるような演出をしました。エリーザベトは第2幕の最初の登場から視覚的効果で音楽を裏付け、世俗を離れた聖人ではない事を表現しています。


[1] 音楽の表現しようとするところを言葉で言い尽くすことは不可能なので、このテキストの説明の補足にタンホイザーの解説された2場面の試聴をお勧めします。第1幕第2場(T. 320-420)「Geliebter! Komm, sieh dort die Grotte」からと第3幕第1場((T. 135-295)「Allmächt'ge Jungfrau! Hör mein Flehen!」の歌詞の場面です。

Mauer, Cathrin

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